ある日の備忘録 001 

ぼんやりとした疑問や、ふとした思いつきを忘れないように書き留める。断片的な一人称の着想は、ひとつひとつが役に立たなくても、掛け算や引き算をすることで新しい発見につながるかもしれない。未知と仮説の化学反応を嗜む「備忘録」は、毎月の配信予定です。第一回目は、浜辺にとどく漂着物、漂流物に関する備忘録です。


浜辺にとどいた流木は、売れるのだろうか

風と海流の影響を受け、

どこかの国や地域から届く漂着物。

送り主は、分からない。

流木をはじめ、その種類はさまざまだ。


自然物だと↓

流木、木の実、海草、貝、魚(生きたもの、あるいは死んだもの。生きた回遊魚などが大量に打ち上げられることもある)、ヒトデ動物の死骸、骨、サンゴ、軽石、死体など


人工物では↓

難破船、漁具(黒球が多い。魚網、イカ釣り漁船の漁火用の電球など)、釣具、空き缶・ペットボトル、発泡スチロール、楽器、注射器・浣腸器等の医療廃棄物、下着、廃油ボール、ラジオゾンデ、機雷(湧別機雷事故、名立機雷爆発事件*1を参照)など

漂着物は不規則かつ無計画に届く。

長旅の途中でたっぷりと紫外線を浴び、船や岸壁にぶつかり、

それぞれが、たどり着いた表情を浮かべる。

色はあせ、海産物が付着し、朽ちている物も多い。

しかしながら、歴史を感じる何かがある。

ロマンを掻き立てられずにはいられない。

美しい貝殻やサンゴ、

ときに陶器の破片を観察しながら集めるビーチコーミング*2を否定するつもりはないが、

漂着物の魅力は、経年劣化の自然美に軍配が上がるだろう。

名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ・・・

島崎藤村の叙情詩「椰子の実」も、漂着物がきっかけだ *3。

漂着物に限った話ではないが、ある人にとってはただのゴミでも、

誰かにとっては宝物かもしれない。


*1 新潟県西頸城郡名立町[1](現上越市名立区)に漂着した機雷の爆発によって、多くの小中学生を含む63人が死亡した事件(1949年)


*2 ビーチコーミング(Beach combing)とは、海岸などに打ち上げられた漂着物を収集の対象にしたり観察したりする行為。漂着物を加工したり標本にしたり装飾にしたりして楽しむ。本来の意味は売り物になる漂着物を拾い集めることで、骨董の世界では「海揚がり」と呼ばれてきた。ビーチコーミングのやり方や国内のオススメスポットを紹介が丁寧にまとまったWEBサイトはこちら

*3 民俗学者である柳田國男が1898年の夏に、伊良湖(愛知県)にしばらく滞在した際に偶然拾った椰子の実の話を、親友の島崎藤村に語ったところ、それがモチーフとなり「椰子の実」が誕生。


送り主の分からない漂着物は、誰のものなのか


落とし物を見つけたら交番に届ける。

ロバート・フルガムのコトバをかりれば、

おおよそ人は「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」はずだ。


送り主が不明という理由だけで、収集・所有をしてはいけない。

ましてや売買の対象にしてはいけない・・・はずだ。


推定、すなわち断定はできない。

分からないことは、Google(グーグル)に聞いてみよう。


検索ワード:「漂着物」「誰のもの」


0.48秒で28万件の答えがかえってきた。

気になったサイトを紹介する。

・気になったサイト A
 https://karano.exblog.jp/11686322/


その昔、屋久島では岸に漂着した丸太は、

最初に見つけた人の所有物になり、

その権利の主張は石ころ一個を載せておくだけで良いらしい。

早い者勝ちのルールは、シンプルで美しい。

・気になったサイト B
 https://www.env.go.jp/council/seisaku_kaigi/epc016/mat02.pdf


海岸漂着物処理推進法という法律があるらしい。

漂着物は所有者や処理の責任帰属が不明瞭だからといって、

そのまま放置したらダメだよ、という内容。

漂着物=ゴミと捉えられている場合、

ゴミを積極的に処理すること(収集・所有すること)は、

むしろ推奨されるのでは、とも思える。

・気になったサイト C
 https://kotobank.jp/word/%E6%BC%82%E6%B5%81%E7%89%A9-1401413


一方で、漂着物は遺失物と同一であり *4、

拾得者の市町村長に対する物件引渡しの義務、所有権者への引渡しが必要という情報もある。

ただし、漂流物(遺失物)が自分のものであると、

どう主張・証明するのか(できるのか)、やや釈然としない。

一般的な遺失物と同等の場合(お財布とかカバンとか)は、

道路や海岸問わず届けましょう、という解釈で良いだろう。


*4 法的な取扱いは遺失物法ではなく水難救護法

・気になったサイト D
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/4/8/4_8_32/_pdf

漂流物は、誰のものでもあるし、誰のものでもない。

しかしながら漂流物がいったん海岸に漂着した時点から、

無主の世界である海から浜に漂着した自然物(漂着物)に、

文化的な価値・所有が付与される。

浜が自然と文化の接点となる境界線という考え方は、

とても理解しやすく納得度も高い。

28万ページすべてを紹介する気力を持ち合わせておらず、

また、紹介途中で天国か地獄に行ってしまうため、割愛させていただく。


「漂着物は誰のものなのか」

ひとまずの結論としては以下の通り。


社会通念上、明らかに所有者を想像・想定できない場合においては、

それら漂着物は自由に収集・所有・販売して良い。


漂着物ビジネスの現場

仕入れ値0円の漂着物で、商売している人はいるのだろうか。
再びGoogle(グーグル)の登場。検索ワード:「漂流物」「ビジネス」


◉アート・趣味(環境問題への取り組み)

・老人と海と空き瓶と @マレーシア

 https://www.afpbb.com/articles/-/3311597?pno=12&pid=22764310

・漂流物アートユニット @淡路島
 by O’Tru no Trus (オートゥルノトゥルス) 

 https://www.asahi.com/and_w/20191127/1025006/

・One Beach Plastic プロジェクト @アメリカ
 by プラスチックアーティスト(夫妻) 

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70807?page=2

・漂流物から巨大チヌ @岡山県宇野港by 淀川テクニック

 https://www.okayama-kanko.jp/spot/10640

・流木アーティストby 児玉昌彦

 https://www.numazu-ryubokunomori.com/

・プラスチック廃棄物から巨大クジラ @ベルギー
 by 米ブルックリンの建築デザインファーム「STUDIOKCA」

 https://www.design365life.jp/0000145902/

◉ビジネス(アップサイクル、一攫千金)

・流木の販売、加工品の製作販売

 https://bokuryuutei.com/

・海洋ゴミからプロダクト(雑貨)へ

 https://buoy.stores.jp/

・龍涎香(マッコウクジラの腸内産物)

 https://article.yahoo.co.jp/detail/54104769381eaa08aca3f2d2ad18bceff9018aac

総じて、流木を活用したアート系のプロダクトが多いものの、

漂着物を商売にしているケースもあるようだ。
とくにマッコウクジラの腸内産物は、

3億円という一攫千金の夢もあり、ロマンを感じる。

漂流、漂着を題材にした映画づくり。

たとえば、で考える映画づくり。

正解か不正解かの二項対立の判断ではなく、

漂流物のごとく緩やかな心で、個人的な着想を嗜んでほしい。


長い年月をかけてカタチになる漂着物。

その魅力の真ん中に「時間の経過」を定め、

漂流→漂着のリアルな物語を届ける記録映像。


現在、世界最長の映画はスウェーデン人のアーティスト、

アンダース・ウェバーグ氏が監督した映画「アンビアンス」。

上映時間が720時間(予告編だけで7時間)。

https://youtu.be/RLevgVmZ8rE


「アンビアンス」を超える作品づくりとして、上映時間は1年間(8760時間)を想定。

観る者もまた、1年間の漂流を同時体験する。


誰かの宝物にGPS付きのカメラを搭載し、

一定期間(1年間とか)漂流させ、その軌跡を届けるドキュメンタリー映画。


人は、どこまで「待つ」ことができるのか。

人は、どこで「待つ」ことを諦めるのか。

現在進行形の「大切なもの」が、過去形に変わる瞬間を見届ける。


待つことと、諦めることの境界線。

執着の消費期限を探る旅。


その旅は、個人旅行から団体旅行へ。

個人的な想いが集団的な想いに変異し、

愛情や愛着の共同幻想が

いつしか持ち主への憎悪に切り替わる。

潮目が変わる瞬間に、人は、人々は、何を想うのか。


丸山健二の「その日は船で」のように、

テーマは重く、しかし、語り口は恬淡に。


宝物は、できる限り個人的な対象物に。

たとえばそれをラブドールとする。


ある人の狂気的に愛情を注ぐラブドールを

どうにか勝手に持ち出し、海へ放ち、漂流させる。

当事者は狂い、嘆き、憎しみ、生涯かけて待つ、と断言する。

狂う人を観て、憐れみ、同情するが同調はしない。


アリス=紗良・オット氏の「ラ・カンパネッラ」とともに、

1年間の旅路の幕は開ける。


しかしながら、マイノリティ志向の強い悪い映画に、

スポンサーは付くのだろうか。


カメラの耐久性の実証広告としてのGoProか、

チャレンジ大好き‎Red Bullか。

NetflixやAmazonに企画を持ち込むのか。

クラウドファンディングもアリかもしれない。

いずれにせよ、予算は手段のひとつのなので、大した問題ではない。


タイトルは「Traceability」

人間のリアリティを描くなら小栗康平氏、

シュールに描くならアキ・カウリスマキ氏、

「ばかのハコ船」時代の山下敦弘氏が

監督として適任だと思う。


あるいは題材を宝物ではなく、

リアルに人間を漂流させるパターンも。

人間も漂流する物質と捉え、その軌跡を追いかける。


たとえば、

時効成立後の加害者を探し出し、

贖罪としての漂流のリアルを追う。

1908年(明治41年)に廃止された流罪の再現。


自己都合型の謝罪に、

漂流という苦悩の日々を掛け算することで、被害者の心は揺らぐのか。

許すとはなにか、快復とはなにか。

はたまた、

神話はつくれるのか、の実証実験として、

習わしや宗教観を捏造するパターンもアリかもしれない。


漂流をひとつの民俗学的儀式、行為にする。

たとえば、いくつか鏡を粉々に砕き

大きな板の両面に貼り付け、汽水域に放つ。


船の進水式同様に、日常使いの茶碗を割り、

目を閉じ、人々は祈りを捧げる。


鏡の破片と光線の乱反射を思い描き、

「般若心経」の262文字のごとく、

「仮想経典」を毎日555回唱和する。


規則性を持った反復行為の現象。


波長555nmの可視光線の世界を

視力を使わずに脳内再生できたとき、

人は、大阿闍梨ならぬスペクトルになる。


反対に、

不可視光線である赤外線や紫外線を

可視光線として脳内再生できることも、

スペクトル称号に値するかもしれない。


虚像や虚言なのか、真実なのか。

それは、当人しか分からない。

見えることと見えないこと。

曖昧な概念の表裏一体を楽しむ

フィクションドキュメンタリー。


考えると、キリがない。

閑話休題

浜辺に届いた流木をはじめ、

漂着物には、さまざまな魅力がある。


一次加工して誰に届けるのか。

経年劣化を活かして何をつくるのか。

映像として届けることも可能だ。


誰に、何を、どうやって届けるのか。


ブランディングの基本でもあるが、その組み合わせは無限に存在する。


答えは、ひとつではない。


Profile

文章 _ 磯野 健二  イラスト _ 岡田 有紗

磯野 健二 / プロデューサー、起業家、WEBマガジン「PROFIT」編集責任者、株式会社ザッツ・オールライト 代表

岡田 有紗 / グラフィックデザイナー・イラストレーター、美大→DRAFT→THAT’S ALL RIGHT. 

注釈)あくまで個人の独断と偏見による考察のため、法律や条例まわりの解釈は専門家への相談を推奨します。

ブランディングや商品開発を手がける株式会社ザッツ・オールライトが運営するWEBマガジン「PROFIT」。ブランディングの観点から世の中の事例を紐解いたり、SNS運用のTipsを配信して、SNS担当のみなさんに役立つ情報をお届けします。ふとしたときに、週のまんなかに、どうぞご覧ください。
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